翌日、ロイは憮然とした表情を隠しもせず、執務室のソファにどっかりと腰を降ろしていた。
左手に巻かれた真っ白い包帯が、軍服の青と相俟って目にも眩しい。
さも嘘臭い、痛そうな演技でそれを擦りつつ、斜め前に殊勝な態度で立ち尽くす部下をきつく睨み上げる。
「貴様のせいだぞ。」
「何がっすか。気付かなかったのはアンタも一緒でしょうが。」
「結果としてテロリストの一人を逮捕できたから良かったようなものの、お前があんな事を言い出さなかったら私は今頃…。」
今頃、鋼のと一緒に楽しい時間を過ごしていたというのに。
そう言ってしまいそうになりロイは慌てて口を噤んだ。
あの後、半ば強引にデートをさせられた女は、食事を終えて別れ様とした瞬間に牙を向いてきた。
先月一斉検挙されたテロリスト23人の中に恋人がいたらしい。
逆恨みによる犯行だったのだが、夜ベッドを共にし、隙をついて、逮捕劇の最高司令官であったロイの寝首を掻こうとしたのだ。
女好きで有名なこの男のことだからきっとうまく行くと高を括っていたのだろうが、やんわりと別れを告げられ、ならば今この場でとハンドバッグに隠し持っていたナイフを取り出した。
即座に殺意に気付いたものの、相手が女性であったのもあり、天性のフェミニストぶりを発揮して、無傷のままに取り押さえようとした結果がこの傷だ。
特に手配の回った人物では無かった為に、記憶の琴線に引っ掛からなかったのもあり、最終的にはロイの手柄が一つ増えた事にはなるのだが、事前にされていたハボックからの報告もあって、有能な副官からの風当たりが非常に強い。
ロイは被害者ということもあり、様々な事後処理をして。
ハボックは逃走した上官を取り逃がした挙句デートに行くのを見送った罰として翌朝である現在まで司令部に詰めていたのだ。
二人の機嫌はすこぶる悪い。
上司を上司とも思わぬハボックの態度は、益々ロイの怒りに油を注いでいた。
「ハボック、貴様何故昨日からそんなに機嫌が悪い?」
「………大将が可愛いからです。弟…いや妹みたいなあいつに悲しい顔させたアンタが許せません。」
「……っ!」
忙しさに感けてすっかり忘れていた現実に引き戻された。
そういえば、あの子は今日司令部に来ると言っていたらしい。
どんな目で見られるのだろうか。
不審?軽蔑?嫌悪?
ここへ戻ってくるといつも真っ直ぐロイの元へ駆け寄ってきた無邪気な笑顔が脳裏を過ぎる。
もう近寄っても貰えないかもしれないのか。
常に無条件で与えられていたあの愛情が、もう自分に向けられる事は無いのかもしれないと思っただけで、胸が酷く痛んだ。
思わず頭を抱え込む。
戦場の麻痺するようなそれとは違う、妙にリアリティの伴う恐怖心。
何が怖い?
嫌われてしまうのが怖い。
「大佐?大佐、どうしたんスか。」
「……は…っ」
息を止めていた事にハボックに声を掛けられて漸く気付き、短く息を吐いた。
その時、司令部の中でも奥まった位置にあるこの執務室へ向かってくる一対の足音が聞こえてきた。
鎧の金属が擦れ合う音。
生身と鋼のアンバランスな音。
どちらも冷静さに欠けていて、ただ慌しいだけのいつもとは全く違うもので。
今は顔を合わせたくないというのに、無常にも扉は大音を伴って押し開けられた。
「…!!!」
「大将、アル…どうしたお前ら。」
両手で顔を覆い俯いたままで、彼らの入室を迎え入れた。
何故こんなに平静を欠いているのか、考える時間が欲しかったのに。
つかつかとこちらに真っ直ぐ歩み寄る足音。
本当はたいした傷ではなかったのだが、ハボックに対する厭味を込めて大袈裟に巻いてもらった、白い包帯に包まれた左手を、ぐいと力任せに引き上げられ、驚きのままに顔を上げてしまう。
そこには腹立たしげに眉を潜めるエドワードがいて。
私と目が合った途端、悲しそうに歪められたのだった。
「なんだよ…心配して来てやったってのに。」
「…す、まなかった。本当はたいした傷じゃないんだ…。」
「何でそんな顔すんの?俺ってそんなに嫌われてる?」
そんな顔とはどんな顔なのだろうか。
上手く笑えていない自覚はあるのだが、どうにもいつものように表情をうまく取り繕えていないようで、ロイは途方に暮れた。
「怯えるなよ…流石に泣くぞ…俺。」
「――――!!」
「手は、大丈夫なんだな?」
一瞬、本当に泣いてしまうのかと思った。
涙は一粒たりとも零れ落ちなかったのだけれど。
ロイは無言のまま、こくりと首を一つ縦に振り、傷は問題ないのだと知らせた。
何故この子はこんな表情をしているのか。
解らなくて、困り果てて、ハボックへと視線を泳がせば、そこにはやはり切なそうに眉を寄せた男がいて。
その後には、所在無さそうに鎧の弟が無言のまま立っていた。
「じゃ…俺行くわ。大佐、今までごめんな?お大事に。」
「兄さん…?」
「大将…。大佐!あんたなんでそんな…。」
入ってくる時とは裏腹に、エドワードは静かに部屋を辞していく。
呆然と見送ることしか出来なかったロイに2対の視線が注がれていた。
「あ…れ?鋼のは、どこへ?」
ロイの声に覇気は無い。
訳が解らない、と、見開かれたままの黒い瞳は瞬きすら忘れていて。
「大佐、兄さんは大佐にとってそんなにご迷惑な存在でしたか?怖かったですか?」
「そん、なことは無い。ある筈が無い。」
「じゃあ何であんな顔…。」
アルフォンスの声は怒りのためか悲しみの為か、両方なのだろう、鎧の中で滲むように響き、そうしてそのまま静かに立ち尽くした。
「嫌われてしまったのかと思って…、鋼のの顔を見るのが怖かった…。」
「…は?大佐!アンタは大将を嫌がってたんじゃなかったんですか?」
「ちがう。違うんだ、昨日だってあんな女と時間を共にするくらいなら鋼のを誘ってこの近くのツバメの巣を見に行こうと…。」
今にも消えてしまいそうな、そんなロイ・マスタングをハボックは長い付き合いの中でも初めて目にした。
今回の件は、勘違いをした自分達に、いや自分に大きな落ち度があったのだと漸く悟る。
「…すいませんでした。俺が悪かったです。」
「なぁ…鋼のはどこへ?」
ホークアイが緘口令を敷いた理由はここにあった。
話が全く噛み合わず、エドワードの所在だけを尋ね続ける男に、ハボックは唇を噛み締め背中を向ける。
「俺、大将探してきます。」
「僕も心当たりを回ってみます。」
居た堪れなくなった弟もハボックに同調し、執務室を後にしようと踵を返した。
「待ってくれ…、私が行く。ああ…中尉に言っておいて貰えないだろうか。ありのまま伝えてくれて構わない…。」
「…はい。任せてください。」
「僕も中尉にお願いしますから、だから兄さんを見つけてあげてください…。」
二人に見送られ、ロイは執務室を出た。
扉を閉めた瞬間こみ上げてくる感情に、突き動かされるように走り出す。
息を切らして司令部の中の彼女が好んで立ち寄る場所を隈なく探した。
それでも見つからず、不安は大きくなるばかりで。
裏庭まで出て、空を見上げたら、ツバメが一羽空を横切っていった。
ああ、私は鋼のが好きだったのか…。
今頃気付いた愚かな自分に両手をきつく握り締め、裏門から外へと飛び出した。
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