「鋼の…。」
その声は書庫の中に低く低く響いた。
最奥の棚の前にびくりと揺れる人の気配。
いつもならば嫌だと言っても着かず離れず傍にいて熱い視線を送ってくるはずの子が、今はまるで逃げるように背を向けている。
厚みのある貴重文献が多いせいか、ここの書棚は他の部屋のそれよりも重厚な作りをしていて、カーテンも常に閉められおり、気配を消しているつもりなのだろう、明かりは点けられておらず、布一枚隔てて室内を照らす陽光がかろうじて室内の様子を伝えているに過ぎなかった。
ぼんやりと見える整然と並べられた書棚の影は暗闇に近く、小柄なエドワードならば隠れるのは容易い。
「鋼の…。」
「………。」
「いるのは解っている、返事をしなさい。」
怯えたようにびくりと震える空気。
いつも強引なアプローチをしてくる少女に圧巻され、辟易することは多々あったというのに、拒絶されている今の現状は心に苛立ちを生んだ。
一歩前に足を進める。
不機嫌な感情を露にしたロイの足音に、エドワードが身じろぐ。
また一歩、と足を動かせば、これ以上来るなと警戒心丸出しの震えた声。
「なに?報告書なら提出しただろ?!」
「それは読んだ、しかしあれが上に通らない事など君でも判ってる筈なんだがね?」
沈黙は彼女なりの優しさなのだと気付いたのはつい先程。
ロイはこれ以上小さく暗闇に身を隠す少女を怯えさせまいと、ゆっくり歩み寄る。
「来るな…っ!」
「怒ってる訳じゃない…。」
「嘘、俺がちゃんと説明しなかったから怒ってるんだろ?だって……」
言葉尻は部屋の片隅で途切れて消えた。
怯える理由も解らず、いつもにも無く弱気なエドワードに足を止める。
「だって、なんだい?」
「こ、声…怖い、怒ってる…。」
「っ!」
邪険に扱うのはいつもの事だったが、本気で怒った事など無かった。
怒っている訳ではなかったが、こんなにも感情を隠せなくなるのも初めてだったので、エドワードの言葉に漸く自分が苛立つ感情をそのまま声に出していたのだと気付いた。
はぁ、と重い溜息を一つ零し、落ち着きを取り戻す。
「すまなかった。本当に怒ってた訳じゃないんだ。ただちょっと苛々してしまって。」
「……大佐がいらいらすんのわかる。ごめんなさい。」
自分がもし同じ立場だったらと想像し、エドワードも思わず謝罪の言葉を口にした。
しゅんと肩を落とした気配。
事件の報告のせいで苛立っていたわけではないので、ロイは慌てて声のする方向に歩み寄った。
「いや、違うんだ!君は私の立場とかを考えてあんな報告書を出してくれたんだろう?」
「う…。」
「それについては反省している。流石に私も気を抜きすぎた。以後気をつけるよ。」
遠目からでは良く解らなかったが、近づいてみれば暗闇という訳でも無いのでぼんやりとエドワードの姿が見えた。
不安気に膝を抱え込み丸くなって座り込んでいる、その後姿に胸が詰まる。
「じゃ…何でいらいらしてるんだよ…。」
「それは…。」
「俺なんかしたんだろ?」
「したと言えば、今もしているね…。」
後数歩の距離をゆっくりと縮め、ロイはそっとエドワードの肩に触れた。
びくんと全身を硬直させ、益々膝に顔を埋めてしまう少女に、どうしょうもないと苦笑する。
本当の理由を話すのは、なんだか気恥ずかしくて、でもこんな風に背中を向けていられるのはもっと嫌で。
「君が私に背中を向けてるから…。こっちを見て笑ってくれないからだ。」
「………?」
訳も解らずエドワードは顔を上げた。
ちらりとこちらに向けられる視線。その瞳に涙は無かったが、切なそうに潤んでいて澄んだ琥珀色が滲んでいて、まだ幼いせいかいやらしさの無い色香を放っている。
「自分でも良く解らないんだがね、君に背中を向けられるのはとても辛いようなんだ。」
「大佐が辛いのか?」
「ああ。」
床に手をつき慌ててこちらに身体ごと向ける。
急な方向転換に垂れた三つ編みがひょこと小さくと跳ねた。
「もう背中むけない、だから辛くならないで!」
「鋼の…。」
「正面むいてるから、おこっていいよ。」
直向きで純粋な愛情表現に触れる指先が震える。
頬にかかる後れ毛に手を差し込み、優しく梳いて後ろに流すと、なんだか妙に暖かい気持ちになって、ロイはくすくすと笑いながらエドワードの身体を胸に抱きこんだ。
「…大佐っ??」
生まれて初めての感触に、戸惑いを隠しきれず上擦った声を上げるエドワード。
可愛くて仕方ない、と思った。
「怒ってないんだ、本当だよ。それより君こそが怒らないといけないんじゃないかな?」
「お…おれ?」
「そう、私は君を信頼しているから、君は私の間違いや悪いところを正す権利があるんだよ。私を甘やかすのではなく、厳しく叱っていいんだ。」
「で、でも…。」
戸惑いを隠しきれずに慌てふためくエドワードの背中をぽんぽんと優しく叩く。
「今日、君の目に私はどう映った?無能だっただろう?」
暫く黙り込むと、エドワードは意を決したように口を開いた。
きゅっと上げられた顔は薄紅色に染まっていて、それでも毅然とロイの漆黒の瞳と対峙する。
「無能だった!あんなんじゃアンタの命いくつあっても足んねぇよ!」
「じゃあやっぱりあの男達は…。」
「…大佐を狙ってた。」
「そう、か。すまない。これからは気をつけるよ。」
「これからは俺が付き合ってやるから、俺がいる時ならいっくらでも無能でいいから…旅に行ってる間は頑張って有能しててくれよ!」
手をぱたぱたさせながら必死で言い募るエドワードを抱く腕に、ますます力を込める。
これではお姫様と騎士が逆ではないか。
なんだか情けなくなって、肩の力を抜くと、エドワードはいつもの語調を取り戻し、元気に耳元で叫んだ。
「俺無能な大佐も大好きなんだ!!」
「あ…ありがとう…。」
声高に好きだと愛を告げるくせに、抱き締められてもロマンティックな雰囲気にすらならない。
金色に輝く少女はやはりまだ幼くて、恋愛対象として見るには無理があると思った。
歳の離れた妹か可愛い飼い猫か。
あと数年したらきっと美しく成長するのだろうけど、その頃には初恋の相手など綺麗さっぱり忘れて恋人でも作っているのかもしれない。
そこまで考えてちくりと胸が痛んだのは、娘を嫁に遣る父親の心境なのだと無理矢理結論付ける。
それ以外の感情は持ってはいけないのだ。
親愛の情を込めて後頭部に手を添えて抱き寄せると、それに答えるように胸元に頬を寄せ、ふくふくとした表情で笑うエドワードに安堵する。
所詮子供の恋心なのだ、と。
馬鹿にしている訳ではない、愛を告げる少女の言葉に偽りなど感じた事はないのだから。
それでも幼い日に自分自身経験した、恋に憧れる感情を身をもって知っているだけに、一過性の熱なのだと思ってしまう。
想い出深く、今も忘れえぬ恋心。
でもそれは時と共に甘酸っぱいような気恥ずかしいようなただの青春の1ページと成り果てているのだから。
それなら尚の事、少女の初恋に踏み入ってはいけないのだと思った。
ロイが子供の本気を思い知らされるのは、もう少し先の事である。
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